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三国同盟戦争(さんごくどうめいせんそう、Guerra de la Triple Alianza、1864年-1870年)は、パラグアイと、アルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟軍との間で行なわれた戦争。ラテンアメリカの歴史の中で最も凄惨な武力衝突となった。パラグアイ戦争 (Guerra do Paraguai)と呼ばれる事があるが、この名称は主にブラジルでの使われ方である。開戦の直接のきっかけは、当時ブラジル・アルゼンチンの緩衝国であったウルグアイの内戦に、パラグアイの独裁者であり領土拡張主義者であったフランシスコ・ソラーノ・ロペス (Francisco Solano Lopez)が介入したことによる。このため、ロペス戦争(Guerra Lopez)とも呼ばれることがある。この開戦には、ラテンアメリカの植民地支配の歴史や、この地域へのイギリスの経済的関心も影響している。 1810年5月25日の五月革命によるブエノスアイレスの主導権を認めずに、1811年に独立したパラグアイは、総統フランシア博士の時代からアルゼンチンのメソポタミア地方の分離独立を支持する政策を採り続け、1820年のエントレ・リオス共和国の樹立にもパラグアイの影響があったと言われている。こうした政策は成功し、1838年にはアルゼンチンのミシオネス州を併合した。 1844年にパラグアイ共和国初代大統領に就任したフランシア博士の甥、カルロス・アントニオ・ロペスの開放政策の下で南米初の義務教育の導入、南米でも早い部類に入る鉄道の導入、工業化、ヨーロッパへの留学生の派遣、タバコとマテ茶の貿易、そして国土の98%にも及ぶ土地の国有化により、パラグアイはラテン・アメリカで最も近代化された国家となり、1862年に彼が死去した時には常備18,000、予備45,000の併せて六万人にも及ぶ南米最強の軍隊を有していた。 カルロス・ロペスは前任者と同じようにアルゼンチンのリトラル三州の分離独立運動を支援し続けたが、これはフアン・マヌエル・デ・ロサスの怒りを買った。1845年にはロサスはパラグアイとの貿易を停止し、1845年から1846年にかけてアルゼンチン軍と戦闘することになる。 アルゼンチンの圧力は撥ね退けたが、1852年にロサスが失脚すると今度はブラジル帝国からの圧力が強くなってきた。ブラジルはパラグアイ川の自由航行権をパラグアイに要求し、危うくパラグアイとの戦争にまでなりかけたが、1858年にパラグアイがブラジルに自由航行権を認めると一端対立は収まった。 カルロス・ロペスは1862年「共和国は解決すべき多くの問題を抱えている。しかし剣によらずペンで解決せよ。特にブラジルに関しては」と息子に言い残して死亡した。そして同年長男のフランシスコ・ソラーノ・ロペスが第二代大統領に外為 する。 こうした状況の中でブラジルはウルグアイとパラグアイに対する野心を隠さず、ソラーノ・ロペスの娘とブラジル皇帝の縁談は断られた。不動産投資 でイギリス帝国も南米で唯一イギリスの自由貿易帝国に加えられていないパラグアイを疎ましく思うようになっていた。 東方州は1825年からはじまったアルゼンチン・ブラジル戦争の後、フアン・アントニオ・ラバジェハと33人の東方人の掲げたアルゼンチンとバンダ・オリエンタルの統一と言う目標は、ラ・プラタ川の両岸をアルゼンチンが単独で保持することを恐れたイギリスの介入によりかなわず、結局東方州は1828年にモンテビデオ条約の結果としてアルゼンチンとブラジルの緩衝国家、ウルグアイ東方共和国として独立することになった。 その後コロラド党とブランコ党の対立がそれぞれニ大国の支援を仰ぐことになり、大アルゼンチンを目指してウルグアイの併合を目論んだアルゼンチン連邦のフアン・マヌエル・デ・ロサスがブランコ党を支援し、ロサスと敵対していたブラジル帝国、イギリス、フランスがコロラド党を支援するという構図の大戦争が勃発した。 戦争半ばからはブランコ党が優位だったが、1851年にコロラド党、ブラジルと同盟したフスト・ホセ・デ・ウルキーサの手で、モンテビデオを包囲していたブランコ党が破られると大戦争が終わり、翌1852年のカセーロスの戦いでロサスは失脚した。その後コロラド党とブランコ党の挙国一致政権が出来るがこれもすぐに崩壊し、1854年にコロラド党のベナンシオ・フローレスが大統領に就任したものの、その後もコロラド党とブランコ党の対立が内戦に発達する要素は保っていた。 バルトロメ・ミトレアルゼンチンではフランス、イギリスとの大戦争を戦い抜いたロサスがカセーロスの戦いで、ブラジル、コロラド党と同盟したエントレ・リオス州出身の連邦派のカウディージョ、ウルキーサに敗れると、1852年にウルキーサがアルゼンチン連合を主催し、1825年以来の中央政府が樹立される。しかし、ブエノスアイレス州はアルゼンチン連合への加入を拒否し、1861年9月にバルトロメ・ミトレ州知事がウルキーサをパボンの戦いで破ると、外為 とブエノスアイレス州を合併し、1862年10月には自らその大統領になった。ここにアルゼンチン初の国土統一が成ったのである。こうしてアルゼンチンの急速な西欧化が始まった。 自由主義者で欧化主義的な傾向があったミトレは、当時のラテンアメリカの自由主義者の典型例のように、ガウチョやカウディージョやインディオのようなスペイン的なもの、土着的なものを、野蛮で劣ったものとみなし、ワラント で内陸部のカウディージョもミトレに対しての反発を抱き、既にミトレが大統領になる前の1862年2月には「チャーチョ」と呼ばれて民衆に親しまれていたカウディージョ、アンヘル・ペニャローサがラ・リオハ州から蜂起した。 「チャーチョ」は1863年11月に連邦軍に捕らえられ、処刑されたが、パボンの戦いで敗れたウルキーサは失脚したものの、こうした不満を持つ連邦派のカウディージョの統領として未だに影響力を保っていた。 パラグアイ戦争に臨むドン・ペドロ2世1822年の独立後、ペドロT世が失脚した後、ペドロU世が即位すると、各地で起きていた反帝政反乱は終わりを迎え、1845年には最大の反乱だったリオ・グランデ・ド・スル州の分離独立戦争も終結した。 大戦争以後アルゼンチンとの緩衝国となっていたウルグアイへの影響力拡大は進み、多くのブラジル資本が進出したが、 同様に緩衝国だったパラグアイは自立的な発展を遂げていた。 ブラジル帝国は内政の一応の安定を背景にパラグアイへの進出を目論み、カルロス・ロペスの時代には軍事力を背景にパラグアイ川の自由航行権を認めさせる。さらにマット・グロッソ付近の係争地において領土要求をパラグアイに突きつけ、次第にパラグアイへの対応は強硬なものになっていった。 アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルをはじめ、イギリスは独立後のラテン・アメリカ諸国に莫大な借款を与えて周辺国化し、全ての国の経済をコントロールしていた。 しかし、ラテンアメリカで唯一パラグアイだけがイギリスのコントロール下に入らず、カルロス・ロペスの下で自立的に近代化を果たしていた。かくしてアルゼンチンで強力にイギリスと敵対したロサスの失脚以降、イギリスがこの地に支配的な権力を確立するのに、パラグアイは最も危険なくりっく365 となっていた。 大戦争のように、ウルグアイの二大政党がそれぞれアルゼンチン・ブラジルの支援を受けての内戦を繰り広げるという構図は既に述べたが、1854年に成立したコロラド党のベナンシオ・フローレス政権は翌年クーデターで崩壊し、1860年にはブランコ党のベルナルド・ベロ政権が誕生する。 これに対してベナンシオ・フローレスは1863年4月にアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統領の支援を受けてウルグアイに侵攻した。ミトレはかつて自分や、仲間の自由主義者を追放した憎むべきロサスに支援されていたブランコ党を許せなかったのだ。ブラジルもそれまでの伝統的友好関係から、ブランコ党がブラジルで牛泥棒をしたことを口実にして、1863年12月に公然とコロラド党を支援すると、後がなくなったブランコ党のアタナシオ・アギレ政権は1864年3月、遂にパラグアイに助けを求めることになる。 ソラノ・ロペスは当初はこの要請を退けようとしたが、次第にブラジル、アルゼンチンのニ大国に挟まれて消滅しかかっているウルグアイの運命は、明日のパラグアイなのではないかと考えたようだった。こうしてソラノ・ロペスは1864年8月、ブランコ党を支援するためには戦争をも辞さない覚悟をブラジル公使に伝える。 しかし、ブラジルはパラグアイの警告を無視して1864年10月にウルグアイに軍隊を派遣し、コロラド党軍と共にブランコ党との戦いに加わった。ブラジルの行動を座視できなかったパラグアイは1864年11月、パラグアイ川のブラジル船、『マルケス・ヂ・オリンダ』を拿捕し、三国同盟戦争が始まるのである。 本格的な陸戦は、1864年11月にパラグアイ軍がブラジル帝国との係争地域だったマットグロッソ州(現在のマットグロッソ・ド・スウ州)に侵攻することにより開始された。6,000の兵力で侵攻したパラグアイ軍は、翌12月にはブラジルの要衝コインブラやコルンバを占領することに成功した。さらには南下してウルグアジャーナにまで至り、征服した地域をアルト・パラグアイ県として国土に編入する。しかし、ここでソラノ・ロペスの計画に誤算が生じた。ロペスはアルゼンチンのバルトロメ・ミトレ大統領に領土通行権を求め、アルゼンチン反体制派の指導者フスト・ホセ・デ・ウルキーサと密約して、もしアルゼンチンが通行権を認めないなら、ウルキーサがアルゼンチン連邦派をまとめて反乱を起こすことを取り決めていたのだが、この密約がウルキーサに反故にされたのだ。 ソラノ・ロペスはウルキーサに決起を迫ることを目的に、1865年3月に入るとパラグアイは1万の兵力によりアルゼンチンにも侵攻を開始し、翌4月にはコリエンテスを占領する。しかし、それでもウルキーサは動かなかった。 1865年4月、ウルグアイでも当初ロペスに内政干渉からの助けを求めたブランコ党のアギレ政権が崩壊した。コロラド党のベナンシオ・フローレスがブラジル軍と共にモンテビデオを占領したのだ。 アルゼンチン、ブラジルの支援で政権についたコロラド党はパラグアイに宣戦布告するに至り、1865年5月にはイギリスの監督と影響の下でアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイの三国同盟が結ばれる。 この時点で当初ロペスが意図したアルゼンチン、ウルグアイの支援を受けてブラジル帝国と戦うという構想は崩れ、ロペスに勝ち目はなくなっていた。
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